2.22

「行きなさい、シンジ君」
「誰かのためなんかじゃない」
「あなた自身の願いのために」
 ご存じの方も多いと思いますが、「劇場版ヱヴァンゲリオン:破」の劇中の一節。
 クライマックスにおいて、主人公シンジ君が存在消失の危険を顧みず、綾波レイを助けようとした時、葛城ミサトからかけられる言葉です。
 調子を戻そう。
 誰が言ったか知らないが、TRPGとは、物語を紡ぎ出す装置だとか。
 世の中のシナリオライター様やら作家様が、あーでもこーでもないと悩みながら作品を作ってるのに、数人の人間がよってたかっただけで、ペキポキ軽やかに物語を作ってるって・・・本当にTRPGって何よ?
 と、その前に、TRPG的に考えることを前提として、物語って代物をつつき回すところから。
 物語なんて何物よ?それは、特定の時間場面を再現すること。再現される時間場面が現実・非現実であるかは問わない。そ〜ゆ〜事にしときます。
 それ以上の議論は、専門の学者様に任せるとして・・・。
 物語を載せる媒体としてTRPGと他の分野(小説・映像・音声等々)との違いを見てみると、TRPG以外の媒体って、再生前提とした記録と見ることが出来るんですね。う〜む、舞台芸術でさえ、アドリブが少なければ記録前提の媒体になるのかな?
 強いて見つけるなら、TRPGの記録部分とは・・・シナリオかな?
 TRPGには、「リプレイ」という記録があるのでは?という問いも聞こえてきそうですが、アレは一度終わったTRPGを文字や音声にしたものです。密接な関係はあるんですが、TRPGを実際するのとその足跡をたどるのは、全く別物ですよぉ!
 TRPGが、ほとんど何もないところ、もしくは未完成の物語(シナリオ)を完全な物語へと近づけるのが目的とするなら、このことこそが「TRPGが物語を作る装置」と言われる処なんでしょう。
 さて、いきなり自然科学のお話ですが、物体が化学的な変化をやらかしても、重さ(質量)には変化がないそうです。つまりは、何かを作るためには同等以上の材料が必要って事。
 この現象、程度の差はいくらかありますが、精神や創造においても多分に当てはまるんじゃないかと思うんです。
 何もないところから、アイディアは沸いてこない。
 はぁ、やっと今回の本題。
 先ほどの前置きでつらつら言ってたことは、「TRPGとは、無・または未完成の物語を完成に近づける行い」ということ。ですが物体以外の世界でも、無から有を作り出す錬金術みたいな真似は、なかなか出来ないはず。
 では伺おう、TRPGみたいな魔法の装置で作り出す物語の、材料とは何だ?
 TRPG経験の少ない方々の答えは、それこそゲームマスターの用意したシナリオと答えそうですが、さにあらずと、声を大きく言いましょう。それだけではあまりにも材料が足らんのですよ。お食事でたとえるなら、漬け物をアテに味噌汁を嗜むような真似です。
 他には頼らない、マイキャラの深く遠大な設定で何が何でもドラマチックに・・・自分はいいでしょうが、周囲の方々に生米をそのまま食えと言うのは、いかがなものかと。
 さてこれだけ理屈を並べてから、あったり前の結論に持って行こうとするのは、気が引けるのですが。
 物語の原材料として上質なネタとは何か?それは人と人との絆、コミュニケーション、人間関係、つまりは他者との接触と言うことでしょう。
 冒頭の例のセリフが、なぜこんなにも深く印象に残るのか?
 あの言葉をかけられた碇シンジ君ですが、そのとき彼が最も強く望んだことは、何を引き替えにしてでも綾波レイを助けること
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まろやか投稿小説 Ver1.53c